前回の続きのようなもので、今年を締めくくりたいと思います。
先日、高校の同級生Nの奥さんから連絡があり、遺骨が収められている納骨堂に行ってお参りしました。(Nに関しては、当ブログ『矛盾の上に』〔2022.6.9.〕を参照してください)
彼の死後2年半、私は一度も法事に行っていなかったこともあり、申し訳ないという理由もありましたが、それよりも、かかる《縁》というものを深く受け止めていることが、行動に移すことになったわけです。
つまり、動機が先で、行動はその反映です。
一般に、仏壇や墓も含めて法事は霊的な意味では、何をしたからどうなるのではなく、何を思ったから行動として顕れるのです。
奥さんからは、Nが入院中に酸素ボンベを携えていたことやモルヒネを使っていたこと、それから、数年前からずっとある部下から「パワハラ」で訴えられていたことを明かされました。
私は彼がひとまず地上経験において課題(二元性の克服)をクリアしたことを祝福しましたが、最後まで苦悩が続いていたことを知り、胸が痛みました。
⁂龍善寺(納骨堂)の入り口の〔今月の掲示板〕に、以下のようなことが書いてあるのを発見し、ハッとしました。
浄土は言葉のいらぬ世界である
人間の世界は言葉の必要な世界である
地獄は言葉の通じぬ世界である
〔曽我量深先生のお言葉(実際には「浄土」ではなく「仏の世界」と書いてありました)〕
ちょうど、前回私が発信した【叡智(空)⇔現象(差別)⇔妄想】をそのまま表しているかのようです。
今回奥さんから聞いたことですが、Nは「談合」をあってもよいことだと言っていました。
「グレー」を認めていたということです。
もちろんそういうことは、彼の生前から私はわかっていることで、今生きていたら、世間を騒がせている「裏金」も「規則違反したアスリートの出場」も黙認することでしょう。
ただ残念なことには、これらは「言葉にならない世界」すなわち《言葉のいらぬ世界》なのであって、けっして「いい」とは口に出して言えないということです。
公には、すなわち言葉にすれば、確かに「ダメなものはダメ」なのです。
そこで〈地上の住人〉たちは、白か黒か、善(小善)か悪(小悪)かしかなく、超越できないものですから、いくら「グレー」を説いても理解せず、目くじらを立てるだけなのです。
*交通規則でも締め付ける方しか言葉になりません。
クルマが交差点で右折しようとするとき、信号が青のときは対向車が切れないので待っています。
黄色になっても対向車が来ます。
仕方ないので、赤になってから左右の信号が青になるほんの短い間に、右折することがよくあります。(今は青い矢印が付きますが、昔はありませんでした)
でも、右折していいかと言われれば、「赤だからいけない」のです。
言葉にすれば、「ダメなものはダメ」なのです。
でもそれを守っていたら、いつまでも右折できません。
人間社会には「遊び」が必要で、それは「言葉にならないもの」(言葉が要らないもの)です。
しかしそれは《浄土》からかけ離れた人たちには、「盲人に絵画」の如く、一切わからないことなのです。
外に真実を求めているからです。
唯物論(実在論)に陥って省察がないからです。
ただ、そういう地上の住人たちの中にも、考える兆しがある人がいて、迷っている場合があります。
そういう人たちは「切っ掛け」次第で変わります。
月並みですけど、《省察》です。
何度も登場してもらいますが、これも「妄想としての存在」を客観化絶対化して、唯物論を前提にすることによって、語り得ぬことを語るという「論理の使い方の間違い」を引き起こす典型です。
丸みを帯びた三角形のおにぎりを見て、
「三角だ」
いや
「円だ」
いや
「どちらもだ」
いや
「どちらでもない」
などと、表現します。
ともあれ、語り得ることを語っています。【叡智(空)➡現象(差別)】
ところが、地上にどっぷりつかると、
「三角(▲)だから円(●)ではない」
「円(●)だから三角(▲)ではない」
などと、とかく世間の人は理想形を実在として自分の視点と関係なく〈外部〉にあって、それを前提に議論したりします。【現象(差別)➡妄想】
ヴィットゲンシュタインの『論理絵』における「絵の絵はない」に当てはまることですが、まさにこれは「絵の絵を描こう」とすることに当たり、【妄想➡現象(差別)】になってしまします。
また、何度か登場してもらっている「0」についても、同じことが言えます。
本来はその人(自分)にとって限りなく(絶対値が)小さい数、すなわち無限小の総称が「0」なのです。【叡智(空)➡現象(差別)】
客観的にまったく無いという“特権的”な数があって、それを〈0〉と称して、無限小とは別扱いするというのは、完全に妄想です。【現象(差別)➡妄想】
とはいえ、数学や算数では、「0」をまったく無いものが自分と関係なく外部にはじめから在るものという前提で話を進めます。
「その人(自分)にとっての存在」という語り得ることを語るにとどまらず、客観的なものを作り、2は2として、5は5として、互いに語り得ぬものを語って話をしているわけです。
ともあれ、学校で習う数学や算数は、唯物論(実在論)を前提に成り立っています。
ただその省察が重要かつ不可欠なのです。【叡智(空)⇔現象(差別)⇔妄想】
または、定番のこの例もそうです。
*無限に遠いところが在るか無いか?
⁑この宇宙が有限ならば、その先が在ることになり矛盾するから、無限だ。
⁂この世は在るか無いかのどちらかだから在る。
☆だから、無限に遠い所はこの時点で、客観的絶対的にはじめから在る。
という具合に、唯物論(実在論)が現代の人々にこびり付いています。
まさに妄想が支配していると言えます。
妄想とは語り得ぬことです。
とはいえ、語り得ぬことを語って人間社会が成り立っているわけであって、妄想があるのは社会生活のためであり、やむを得ません。
ただそこで、省察をするか否かが大きな分かれ目となります。
妄想を妄想と認めることで救われ、《浄土》の世界に行けます。
妄想を妄想と認める省察がないと、普遍論争などの〈地獄〉に陥ります。
★私たちが小中学生の頃によく聞かされた話で、浄土と地獄の違いを教えるためにこんなお話があります。
今さらという気もするでしょうけど、振り返ってみましょう。
・・・ある人が浄土と地獄の違いを見てみようと思い立ち、先ず地獄に向かいました。地獄ですからそこの罪人どもはみんな食事もなく飢えに飢えているのだろうと思っておりましたが、罪人が座る食卓の上には豪華な食事が並んでおりました。なのに罪人はみんなガリガリにやせ細っています。なぜだろうと思ってよく観察してみますと、お箸が1メートル以上もあって皆、口に食べ物を運ぶことができないのです。怒り出すもの、隣のものが箸でつまんだものを横取りするもの、とうとう大騒動がおこり誰も食べることはできなかったのです。
次に浄土に行ってみますと、浄土の住人たちは皆ふくよかで幸せそうでした。地獄と同じように食事が並んでいます。しかしよく見るとお箸も同じように長いのです。なぜ浄土の人々はふくよかなのだろうと観察していますと、浄土の人たちはお箸でつまんだものを自分で食べるのではなく、周りの人たちに「どうぞ召し上がれ」と差し出しているのでした。
【終】
ここで言っているのは、自分のできることや得意なことで、他人のできないことや不得意なことを補うのが、《浄土》(天国・大善)なのだということです。
〈平等〉という地上の一つの〈差別思想〉にすぎないものを絶対的な《善》として理想化し、唯物論(実在論)を前提に〈在る〉(善が付随している)とすると地獄に陥ります。
何でも自分のことは自分で完結して、みな同じことをするのが人間の完成であり、社会の進歩であり、それが平和と幸福の実現なのだとするのは〈地獄〉の始まりだということです。
地上の道徳(意識上の平等・自立などを一方的に「善(小善)」とする)に帰依しているということです。
以前にも取り上げたように、
『日月神示』には、
「何でも(男女)平等というのは悪平等じゃ」
「区別すると力が出るのじゃ」
とあります。
『聖書』には、
「男は労役の苦しみを与えられ、女は出産の苦しみを与えられた」
があります。
これは、昔だからではないのです。
《人間》の基本なのです。
(様式と状態をはき違えてはいけません。「今は今だ」では済まされません)
意識された区別も、意識された平等(区別の延長)も、叡智界の反映であり、現象界・差別界の義として、平和のための方便として必要であり、かつ〈仮のもの〉という省察が必要です。
地上に張り付いたものではありません。
〈仮のもの〉という省察がないと、妄想を実在としてしまって《地獄》の状態(大悪)になります。
賢者は和して同ぜず
愚者は同じて和せず
このように社会の義として、方便としての「役割分担」の必要性を唱えると、平等思想に洗脳された今の日本人のほとんどは異様に憤慨して反発します。
(考えない人ほど怒り出すのです)
ネットに投稿すれば、まず消されます。
(欧州では平等の行き過ぎを認めて、見直しているというのに)
上述の日月神示を「偽物」呼ばわりし、聖書の言葉を「時代錯誤」として、「状態」と「思想」を混同して、すり替えてしまいます。
何をどう言っても、何度言っても、まず9割の人は理解しません。
(あのT教授が「日本人の9割は思考停止だ」と言っているくらいなので、当然かもしれません)
(稀にネットの投稿で理解する人がいて、先日、意気投合しました。その人は、〈烏合の衆〉が支配する国になり果てた日本を嘆き、もうすぐ「地上の“旅”」を終えることを躊躇なく宣言しました)
日本人は狂ったのでしょうか?
それとも闇の勢力の陰謀でしょうか?
ともあれスピリチュアリストたちが言う、
「日本人は地獄へ行く人が多い」
というのは遺憾ながら本当なのです。
『龍善寺』もそのような日本を憂いて、先述のように掲示板などで懸命に啓発しているのだと思います。
でも思うに、ほとんどの人は理解不能でしょう。
なぜなら、考える「切っ掛け」がないからです。
そこで、民間人にすぎない私がその「切っ掛け」を世に発信しているわけです。
元気にしていますか。
ckに戻ってきてほしいです。
先生がいなくなってからckが面白くないです。
そう言ってくれるのは有り難いことですけど。
まあ、経緯が経緯だけに、戻ることはないでしょう。
CKに限らず、全国的に「野暮」が蔓延し、義理人情もなくなり、真の意味で楽しめなくなりました。
このブログを見てもわかると思います。
日本に見切りをつけて、老後(?)は外国で過ごそうかとも考えています。
では、今どこにいるか抽象的でも良いので教えて頂きたいです
会いたいなぁ〜
4年前に一度お世話になった、野球やサッカーで有名なtkで講師をやっています。ckに比べて業務がキツイため、ブログの更新が思うようにできませんが、雰囲気は悪くありません。と言っても、この年齢ゆえいつまで居るかわかりません。所詮私は旅がらすですから。