2024年11月06日

唯物論撲滅

ご無沙汰しています。
空いてしまったのは、やはり言い尽くした感じがするからです。
相変わらず日本の世の中は、どっちを向いても、ああ云ったこう言ったの「言葉狩り」が蔓延り、侮辱を“差別”と言い、平等だ、民主主義だ、と一方的な思想を盲目的に推し進め、地球外生命体の探索を地球に似た天体に限定し、秩序を保つことを平和と呼び、物質的充足を幸福と言っているように思います。
言い飽きましたが、まだまだ思考が地べたにへばり付いているようです。
すべては一面的な〈唯物論〉(実在論)による迷いです。
そして、唯物論の克服こそが日本の課題であり、それを抜きにして病気が治ることはなく、日本の未来はありません。
今回は、「存在」について、思考を明透化するとともに、今までのことを整理してまとめてみたいと思います。

『存在』とはその人(自分)にとっての存在です。
「客観的絶対的存在」(が前提に在る)というのが【顛倒妄想】なのです。
(世界とは自分の世界である)
(語り得ることはともあれ語り得る)
(語り得ぬことは沈黙しなくてはならない)

自分の実体は霊であり、自分という霊的存在があってはじめて時空や物質があるのです。
(自分の)霊は、脳の産物ではありません。
物質には名前が書いてありません。
自分専用の物質があるわけではありません。
かりに自分の名前が書いてあったとしても、それがなぜ「自分」でなければならないのか、理由がありません。
〔*自分がどのようであるかが神秘的なのではなく、自分が居るということが神秘的なのである(ヴィットゲンシュタイン)〕

『自分≠自分の身体』と『自分=自分の世界=世界(自分の身体から宇宙の果てまで)』
という《霊的自覚》は、すなわち唯物論・実在論⇔観念論・普遍論争・自然科学的世界観の克服を意味します。
しかし、それにとどまることではありません。
それは同時に、この世(地上)に生を受けた意味や課題、そして役割を考えることでもあります。
そうして、エゴはあっても「エゴイズム」に陥らずに、《義》に生きることができるようになります。
菩提心や信仰心、《愛》が発動します。
聖人たちの教えはみな《中庸》であって、道を得て進化することを促すものです。
聖人たちが言う《善》です。

ここで、
『「ない」のではなく《空としてある》そして【妄想としてある】へ』
のための思考実験をします。(実際に描いてみてもいいと思います)
ある点はもう一つの点に一致しているか離れているか?
ある直線はひとつの点を通過しているか逸れているか?
拡大鏡で調べてみるとします。
1000倍、1億倍、・・・と。
ある程度拡大するとそこには入り組んだ光景が・・・。
所詮広がりを持つ図形同士。
中心同士はどうかと言っても、それが「中央値」なのか「平均値」なのか、何とも言えないし何とでも言えます。
人間が現象界で作ったものとか思い描いた広がりを持つ空間である限り、結局その人の〈取り方次第〉とわかるでしょう。
結局自分が決めているのです。
自分が〈一致している〉とか〈離れている〉とか判別する場合にも、理想化して映像化・視覚化して「3次元空間」に投影して再生してしまうのが人情です。
※〈論理絵〉に通じるものです。(絵の絵は存在しない)
ただそこで【誤謬】が生じることがしばしばあります。
いや、常かもしれません。
「一致しているから一致していると観測される」
「離れているから離れていると観測される」
という具合に。
しかしそれは【顛倒妄想】です。
自分の外にはじめから誰にとっても絶対的に〔一致している〕とか〔離れている〕ものがあるというのは【妄想】だと覚ることが肝心です。
《空》としてあるものを、現象界・差別界では意識によって〈是か非か〉を自分が決める。(語り得ること)
しかし社会生活をするため「絶対」や「客観」が必要となります。(実在論・唯物論の温床)
でも誤謬に陥らないためには、同時に、それが「仮に決めたもの」だという省察が必要です。
それを省察しないままだと【妄想】を前提に物事を判断してしまいます。(語り得ぬことを語る)
もちろん、省察しても【妄想】の中で、(表面的に語り得ぬことを語って)、社会生活をしていることには変わりありません。
それゆえ、《空》にしても、〈現象〉にしても、【妄想】にしても、
「本当はない」
などと言うと、
「何が本当なのか?」
となってしまうので、私は「本当は・・・」とは言わずに、
《空》、〈現象〉、【妄想】
をそれぞれ「肯定」するのではなく、ただ「ある」と表現したいのです。
逆にそれらを「ない」と言って「否定」するのではなく、「省察」することが必要であり肝心であり、すべてと言いたいのです。
そして諦観するだけでよいのです。

空[→]色(識)[→]妄想
叡智界[→]現象界(差別界)[→]妄想
(叡智界をイデア,実在界とも言うが、混乱を避けるために使わない)
真[→]仮[→]妄
《空としてある》
〈現象としてある〉
【妄想としてある】

よく私が提起している「差別≠侮辱・迫害・冷遇」も、実はその根底に〈唯物論〉があり、唯物論の克服が鍵となります。
ある属性を持つ一つのもの[→]言葉による区別・差別・判別(〈現象〉として付随する個人の正負の付加価値)[→]差別用語なる【妄想】(言葉に万人にとっての正負の絶対的客観的付加価値が付随しているという唯物論=妄想)

「法則」とは外に絶対的にはじめから在って自分がそれを見るのではなく、自分が作るという自覚(省察)が必要であり、それが「絶対はない」や「例外のない法則はない」と表現されるだけです。
詭弁を避けようとすれば、「絶対はない」や「例外のない法則はない」の〔ない〕は、社会生活の必要性のために〔自分が作る〕または【妄想としてある】と言い換えることができます。

昔も今も世の中には「“本当”はこうだ」という人々を惑わせる記事で溢れています。
★よくネットの科学記事で、
「時間は存在しない」
という表題を目にすることでしょう。
「“本当”は空間はない」
「自分はいない」
も同じです。
これは自分が体験する時空を〈脳〉に帰する『唯脳論』です。
そして、対応関係の因果関係へのすり替えです。
今流行りの「仮想現実」と同じレベルです。
今さら言うことでもありませんが、本当はこうだという唯物論(実在論)の顕れです。
(*仏教で言っている「仮想現実」はこれとは別であり、あくまで、語り得ることを語っているだけで、人間は本源(叡智界)に居ることを前提としながらも〈現象界・差別界にいる〉と言っているだけです)
いつも言うように、
・「存在とは自分にとっての存在であり、時間も空間も自分の世界における〈現象〉である」
・「誰にとっても(自分以外に)初めから存在するという客観的絶対的存在を考えることや前提とすることは【妄想】である」

世に出回っている自然科学記事の「時間・空間」とは、客観的絶対的存在としての〔時間・空間〕を前提にしています。
『唯脳論』も客観的絶対的存在としての〈脳〉を前提に話を進めています。
そのために、「対応関係」にすぎないことを「因果関係」にすり替えてしまっています。
それによって、《自分にとっての時間・空間の存在》を〈本当はないもの〉としてしまっているのです。
現象界・差別界に生きる人間一人ひとりにとって、〈現象〉とは、ともあれ〈語り得るもの〉として有るものは有るのです。
つまり、唯物論者は〔語り得ぬこと〕を語って【妄想】を前提に話を進めるから、我々人間の霊や神の存在をも【妄想】にしてしまうのです。
西洋哲学の講義でよく題材にされる、
「あなたの見ているものはすべて“幻”だ」
というのも、〈幻〉を仏教的な仮想現実すなわち〈現象〉と捉えるならそれでよいのですが、「本当は無い」と捉えるならば、それはやはり唯物論(実在論)的思考から来るものです。
《本源》とか《イデア》というものを認めていながら、それを自分と切り離して、実在だ、観念だと、「自分の外にあるもの(外界)」として捉え、自分という霊的存在と《本源》との結び付きを認めないことで、歴然としてある〈現象としての存在〉を〔幻=本当はないもの〕にしてしまいます。
〈現象としての存在〉は「ともあれ語り得ること」です。
もし「語り得ることを語らない」というのなら、やはり「論理の使い方」の間違いです。

「本当はない」とか「本当にある」とか言って、「語り得ることを語らない」とか「語り得ぬことを語る」という地上にへばり付いた思考が、唯物論者(実在論者)の誤謬であり、深い迷い(霊的病気)なのです。

★『親ガチャ』の発想は、自分が肉体とは別の独立した存在であることを認めていることの証であり、《霊的自覚》の芽があるはずですが、「肉体が霊を作った」という〈唯物論〉と付随する「対応関係から因果関係へのすり替え」がその芽を摘んでしまうのです。
物理法則で自分(肉体と霊)が生まれたのなら、親を選ぶ余地はないのであり、『ガチャ』の発想は生まれません。
☆作曲者および楽曲は、演奏家や歌手を「選ぶ」ことはあっても、「作る」わけではありません。

【※】死後の世界について、ヴィットゲンシュタインは、
「生の経験ではない、語り得ぬことだ」
と言い、ブッダは、
「そんなものは妄想だ」
と言います。
それは、肉体を持たなくなったときのことは、肉体を持った者が〈現象界〉で語るように語ることはできないと言っているだけなのです。
逆もそうです。
盲人が絵画の良し悪しを語るようなものです。
「ある」とか「ない」とか言っているのではありません。

ひとまずここで終わりにします。
posted by コウイチロウ at 00:17| Comment(2) | 中庸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
[存在]。
凄く参考になりました。光一郎さんはこの[存在]に関して苦労されてきた事があるのですか?
Posted by ファー・シャン at 2024年11月18日 13:13
遅れましたが、ありがとうございます。
「存在」に関して苦労?
苦労というより、幼少の頃から悩んでいました。
なぜ自分は自分の身体しか動かせないんだ?
(空を見上げて)この宇宙というものが「前提」にあるってどういうことなんだ?
まあ誰でも一度は思ったことでしょうけど、たいがいは大人になってやめてしまうのです。
しかも、思ったことさえ忘れるのです。
私はずっと思い続けているだけです。
Posted by 光一郎 at 2024年11月22日 00:15
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