2024年08月22日

「侮辱・排斥・迫害」を 【差別】と呼ぶな

私は大衆にこう言うのです。
「侮辱」や「排斥」や「迫害」を
【差別】
と言わないでください。
でないと、
「問題にしなくていい差別」
を問題にして、世の中を息苦しくし、
「社会の義において必要な差別」
をなくして、社会の柔軟性が消えて、不和をもたらします。

〔ネット記事〕
「学歴差別」と取られかねない発言、市長の辞職勧告決議案を可決…失言・不適切発言は約10件
〔私のコメント〕
実際、【学歴】で採用・不採用を決めているでしょ?【※1】
それを〈差別〉と言うのだ。
今の日本人は、それを問題にしないで、「侮辱すること」
を〈差別〉と言って、問題にしている。
言葉の使い方が違うよ!
〔▲13・▼16〕

・この差別は、まさに優遇⇔冷遇を伴います。
ある一つの属性によって、扱いを分け隔てることを差別〔区別〕と言います。
それを〔正当か不当か〕問題にするかしないかは、その人や立場や状況次第です。
そのとき、優劣、上下、善悪などの価値が付随することがある、というより、都合で分けているから何らかの価値が付随します。
【差別】と言った場合、「優遇⇔冷遇」、「尊敬⇔侮辱」などのように、本来は「対」になって顕れます。

学歴による〈採用・不採用〉は、当然のことと〔正当だと〕思っている人が多い(不当だとする人が少ない)のか、力〈ベリアル〉に屈して、仕方ないと受け止めているのか、この差別はあまり問題にならずに、ずっと続いています。
一方、学歴による〈尊敬・侮辱〉のほうは、敏感に反応してすぐに問題にするようです。
しかも決まって「第三者」が〈侮辱〉のほうだけを問題にするのです。
地上の法律や道徳に〈帰依〉している人が多く、法律〔力〕には勝てないため、物質的な差別に対しては〈思考停止〉し、その分、道徳律を拠り所にして他人を裁こうとしているように思えます。
ベリアルに言っても聞き入れてもらえず、やり場がないからか、ユリゼンに言い付けるのでしょうか?
それから、そういう人たちはなぜか尊敬するほうに焦点を当てて「尊敬すること」を【差別】とは言いません。
★いずれにしても、言葉の使い方の間違いなのです。

※例①ネットの記事に対するある人のコメント〕
トドにたとえられたら失礼だなんて、トドに対する明らかな差別ですよね?
〔私の返信〕
✕差別
◯侮辱
〔▲6 ▼3〕
※例②
〔ネットの記事〕
アイヌ民族への差別 戦地でも…満州へ出征 上官が罵倒「日本語が分かるのか」―収容所生き抜いた父の年譜『終戦から79年の今伝えたい』
〔私のコメント〕
✕差別
◯迫害
〔▲1 ▼2〕
※例③
〔ネットの記事〕
森秋彩0点問題で〝アジア人差別〟の指摘相次ぐ 専門家は一蹴「ありません」
〔私のコメント〕
差別は「優遇・冷遇」が対になっているはず。
なので、
✕アジア人差別
◯人種差別
◯アジア人冷遇
〔▲1 ▼0〕
その他にも、
✕女子差別撤廃条約
◯男女差別撤廃条約
◯女子冷遇撤廃条約
△女子蔑視撤廃条約(実利害が薄く感情的で法的に曖昧)
また、こういうのもあります。
ひと頃は、日本人が台湾に行けば、日本人だというだけで、(自国人よりも)「優遇」されたと聞きます。
その場合は、
✕外国人差別
◯国籍差別
✕日本人差別
◯日本人優遇
と言えます。
日本でもかつて、「外人」と言って欧米人を(日本人と比べて)「優遇」していたことはないでしょうか?

★しかしそう言うと、おそらく、こう思う人もいることでしょう。
「言葉の定義は、その時代や環境によって変わるから、侮辱や迫害を「差別」と言おうと構わないではないか?」
それならば、次のネット記事を見てください。

〔ネットの記事〕
【「障害児の教育分離は人権侵害」 弁護士会が文科省通知の撤回求める】
(障害の有無に関わらず同じ教室で一緒に学ぶ「インクルーシブ教育」を巡り、文部科学省の2022年の通知で、特別支援学級の子どもは週の半分以上を目安に同学級で過ごすよう求めたことで障害児の権利が侵害されたとして、大阪弁護士会は26日、通知の該当部分を撤回するよう同省に勧告したと発表した。勧告は22日付。)
 勧告によると、同省は通知で「障害の状態や特性に応じた指導が十分でない事例がある」と指摘し、全国の教育委員会に対し、授業数の見直しを要請していた。この通知に対し、大阪府枚方市と東大阪市の市立小学校に通う児童6人とその保護者が「障害児を分離・隔離する差別だ」と訴え、同会に人権救済を申し立てていた。
〔ある人①のコメント〕
☆その理論だと、『障害者補助金』がアウトになっちゃうんだが。

・そのとおりなのです。
付随する〈侮辱・排斥・迫害〉を差別と言い、「それがいけない」という訴えが通ってしまうと、『障害者補助金』がなくなってしまうのです。
〔※〕【必要な差別】の1つの例です。

障害者を本来の意味の【差別】によって「優遇」するつもりが、付随する歪んだ意味の【SABETSU】によって「侮蔑」することになってしまい、「侮蔑がいけない」と認められれば、優遇もなくなってしまうのです。
結局、何もできなくなるわけです。
〔侮辱がいけない[→]差別がいけない[→]社会は差別で成り立っている[→]何もできない〕

*社会は〈差別〉や〈偏見〉で成り立っているのです。
(再三言っているので詳しくは言いません)
特に実利害がないこと、「感情的なもの」など〔問題にしなくていいこと〕は問題にしないことが肝心です。
でないと、社会そのものが成り立たなくなるのです。
これは、少し前の当ブログで言った『ゴルフ場の女性用ティーグラウンドの話』と同じです。

〔ある人②のコメント〕
☆差別じゃなくて、区別でしょ?

※どうやら、必要な差別を【区別】、侮蔑や迫害を【差別】と勝手に定義しているようです。
最近の日本人の流行りですが、本来は【区別】と【差別】と【差異】は同義です。
振り返ってもらいたいのですが、そもそも選別するときに、「侮蔑や迫害」の〈意識〉があるかないかは、その人の『思いよう』であり、明確な【境界線】などありません。
個人の〈意識〉の是非を問題にするなど、小学校の〈道徳〉にさえありません。
あくまで、〈実利害〉が生じたときにのみ、「問題」にするとか「訴える」とか「裁く」があるだけです。

【※1】において。
また、もしこれが学歴ではなく、「男・女」で採用・不採用を決めているとしたら、どうでしょうか?
今の日本なら、ほとんどの人が間違いなく(不当だと)問題にすることでしょう。
【男女差別】の場合は、採用・不採用という物質的利害も、尊敬・侮辱という感情的利害も、問題にして、不採用や侮辱という負の面だけを取り上げて【SABETSU】と呼ぶことでしょう。
さらに、学歴による採用・不採用のほうは、【区別】だと言いい。男女による採用・不採用のほうは、【差別】だと言ったりします。
再三の省察でわかると思いますが、【区別】と【差別】に明確な境界線などないのです。
世の中に混乱を持ち込まないためにも、負の面だけを取り上げて【差別】と言うのは是非やめてもらいたいのです。

★いつだったか、朝のTV番組で、若い出演者が、この間違いを犯したまま、(なくなるわけがないのに)「当然あってはならないこと」として、盛んに【差別撲滅】を訴えていました。
それに対し、ある識者が、「差別っていうのはね、・・・」と諭しかけて、なぜかやめてしまいました。
もうどうにもならない、言っても分からないと諦めたのか、面倒臭くなったのでしょうか?
代わりに私が何度も言いましょう。
〔差別とは、ある一つの属性によって、人その他の扱いを分け隔てることであって、もともと区別や差異と同義。都合でそうしているため、善⇔悪、優⇔劣、尊敬⇔侮辱、などは付き物、というより、常に伴う。〕
よって、〈侮辱〉することを【差別】と言うのは言葉の使い方の間違いです。
〈交通事故〉を【交通】と呼ぶようなものです。
そして、自分や他人の首を絞めて、何もできなくなります。
「お笑い」が全然面白くなくなったのはそのせいです。
「今は今だ」ではないのです。
様式ではないのです。
病気なのです。
とにかく今の日本はかなり重症です。
posted by コウイチロウ at 01:28| Comment(0) | 未分類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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