2024年08月19日

嘘つき大会

昨今、どこそこの有名人が「差別発言」もしくは「不適切発言」(本来は侮辱発言と言うべき)をしたとかなんとかで問題にする記事があっちこっち見られます。
それに対して、国民もそれに乗っかって、
「20年ぐらい前までなら笑っておしまいだけど、今はダメ」
「昔は昔、今は今だ」
とか、それがひとつの在り方(様式・思想)であるかのように捉え、それが当たり前であるかのように「順応」する様子が見られます。
でも間違えてはいけません。
思想(様式)ではありません。
病気(状態)です。
順応して自己保存を図るのではなく、世の中の病気を治すのが人の道です。
治せなくても、自分が病気から離れることが先決です。

☆先日、あるどこかの知事の発言を取り上げた記事があり、誰かの「ではなぜ選んだのか?」というコメントを受けて私は返信しました。
〔私の返信〕
そのとおり、なぜ選んだの?
この人が辞めても、また同じような人を選ぶよ!

なにか、みんなで「嘘つき我慢大会」というゲームをやっている感じなのです。
「いつボロを出すか?」
「いつ本音を言うか?」
「言ったら、そのとき退場!」
という具合に。
要するに、民衆に「見る目がない」というより、常に【地上道徳的な目で見ている】ということです。しかも、〈仮〉のものに《真》を求めているのです。
もちろん、上に立つべき他人を選ぶだけの「霊的視点」を持っていないという点で「見る目がない」のですけど。
道徳的にキレイな人、立派な人、つまり「嘘がうまい人」を理想としているからです。
なので、誰を選んでも同じなのです。
所詮〈嘘〉なのですから。
日本の選挙の結果、そして政治を見ればわかるでしょう。
それが民主主義の実体なのです。

*いつかも言ったと思います。
「人は他人のことを良く言わないもんだ」
「他人は自分のことを良く言わないもんだ」
と思っておいた方がいい、と私は忠告します。
面と向かって言うとケンカになるから、処世術に長けた人は、たいがい直接本人に対しては、きれいに飾って言います。
たしかにケンカを避け秩序を維持するために必要ではあります。
でもそれは所詮「嘘」です。
みなさんは「嘘つき」を称賛するのですか?
私ならむしろそのような人を信用しません。
なので、私の周りの友人たちはほとんど飾らずにそのまま私に言います。
私も飾らずに言います。
そのほうが腹を割って話せる交友関係ができるからです。
実際、そうしていますし、それで意外と古い友人が多くいるのです。
そのせいか、
「ハセガワさんは嘘を言わない」
で通っているわけです。
ビジネスではなかなかそうは行きませんが、それでも私は嘘がうまい人より、少々口は悪くてもストレートの言う人のほうが真実味を感じるので信用します。
みなさんはどうでしょうか?

〔ここで、大川隆法『真実を貫く』より抜粋します〕
⁂「民主主義で生き残るためには嘘をつかなければいけなくて、もう、「嘘をついて、ついて・・・」しないと生き残れず、正直に認めたらすぐクビになる」というところがあるので、「これはよくないなあ」と思います。正直者はすぐクビになり、嘘をついて言い逃れた者が長生きできて、長く政権を保ったり、大臣の位置を得られたりします。
だから、このへんはちょっと、「民主主義の逆説」みたいなものがあって、実際、民主主義国家というのは世界の三分の一ぐらいしかないなのです。三割ちょっとしかないのです。
(・・・・・中略・・・・・)
民主主義は、自由を与えても大丈夫なような方、自由を与えて政治参加しても間違わずに判断できるような方が多くなった時に出来るのです。
そして、「そのもとは何か」というと、「神仏を信じる心」というのがとても大事だということです。
あくまでも人間が集まって決めただけの法律がすべてではないので、やはり、その上にある神仏を信じる心があって初めて、正しい法律とか正しい政治判断、行動ができるのではないかというふうに私は思います。【終】
(*大川氏の最近の著作では、以前のような激しい表現は鳴りを潜めて、当たり障りのない柔らかい表現が多くなっています)

民主主義では、はじめから偉い人がいてはいけない、偉い人はみんなで決めるんだと言います。
ならばその基準は何か?
「地上の道徳」
なのです。
多数派がそうなのです。
ところが、地上の道徳は所詮「偽善(小善)」です。
所詮〈嘘〉なのです。
そうすると、嘘をつくのが巧い人、自分を道徳的にキレイに見せられる人、一見犯罪などに縁がない道徳的に立派な人が代表者にふさわしいとして選ばれることになります。
ダンテの『神曲』では、そのような〈道徳律を司る偽神(ユリゼン)〉に帰依している人を、〈後ろ向きに顔が付いていて、前に進めない人の姿〉
として表しています。
常に「後ろめたい」のです。
果たしてそのように世の中をうまく泳ぐ人が、真実味のある行動をとれるでしょうか?
高々、
「我慢=美徳」
「事なき」
で終わります。
そこには「緊迫」だけが残り、「平和(心の平穏)」は望めません。

では、このような民主主義の中で、「神仏とつながった人」が、道徳的にキレイに見せることで、民衆から支持されて上に立てるでしょうか?
「地上道徳=噓」なのですから。
《神》はあくまで〈カエサル〉に対しては寛容です。
逆はどうでしょうか?
〈カエサル〉は《神》に対して不寛容です。
なぜなら、〈カエサル〉は霊的観点がないのですから。
盲人に絵画の良し悪しを語るようなものです。
聖人自身は地上的(法的道徳的)に無頓着で完璧になれないのであって、素顔を隠すことができずに、地上の法の下に「犯罪者扱い」され、(イエスやソクラテスのように)受刑者になってしまう可能性が高いのです。
天上にいる大川氏には申し訳ありませんが、民主主義からは霊的指導者は生まれません。
霊的に考えて行動する人が「多数派」になるのは、「象が空を飛ぶこと」より難しいでしょうから。

今や日本の政治は上手く嘘をついて、世の中を上手く泳ぐ人が代表者になるだけになってしまい、それを国民が覚り、何の希望も持てなくなりました。
あるテレビ番組では、「次の総理大臣は〈猫〉でいい」などと言っていましたが、国民の多数派が「地上の住人」なのですから、まさにそのとおりでしょう。
★引用①
【諭吉先生の持論3〜他人に迷惑をかけない人なだけだと結局は何も出来ない】
あと、これも諭吉先生独自の教えなんですが、こんなのもあります。
「他人に〈迷惑をかけないだけ〉では、世の中の役に立つことにはならない」
要するに、諭吉先生の教えは、まず世の中の役に立つことが大前提なのです。
*ただし、その「世の中の役に立つ」は、〈地上道徳的〉にではなく、《霊的》にであって、利他業という意味です。
最近よく、教師の生徒への性犯罪の記事を目にするのですが、そもそも犯罪というのは、被害を受けたと相手が訴えて、裁く人が認めてはじめて「犯罪」になるわけであって、お互いの合意であれば、法律がどうあれ、基本的に第三者が「問題」にすることではありません。
本来、地上の法律(世法)というものは、何か問題(トラブル)が起きた時にすぐに対処できるように“あらかじめ決めておく”というものであって、はじめから意識して遵守するためにあるものではありません。
それに異議を唱える人(ユリゼン信仰者)に聞きます。
「では、あなたはなぜ六法全書を抱えて歩かないのか?」
「それとも暗記しているのか?」
「犯罪の芽がまったくない人間を理想とするなら、まず自分がそうするべきではないのか?」

地上の法律は〈仮〉のものであり、方便であって、幸福や平和そのものをもたらすわけではありません。
あくまで〈カエサルのものはカエサルに〉です。
そうは言っても、ほとんどの人は捕まるのが嫌だから、〈偽善〉で欲望を押さえているのであり、それで秩序を保っているだけです。
でもそれは、あくまで自分の保身(エゴ)が動機であって、世の中や他人のためではありません。
その点、イエスやソクラテスなどの聖人たちは、保身(エゴ)が薄いせいか、「捕まるのが嫌だ」とも思わなかったのでしょう。
法律や道徳の抑止力は、けっして人間の「中身」を善くしたり、社会を清浄にすることはできません。
それでもその人たちが偽善を偽善と認めている人たちなら、ひとまずそれでいいのです。
ところが、世の中には、世法に帰依している野暮天や〈性善説〉を履き違えている人、いわゆる〈ユリゼン信仰者〉がたくさんいて、偽善すら許さず、地上の延長線上に偽善ではない本物の善があると思い込んでその幻を追求し他の人にも求めるのです。
先程の「今の日本の学校」において世間は現場を知らず無責任であるがゆえに、
「教師の犯罪をなくすためには、若い異性に興味があり、犯罪の可能性が0でない人、火種が少しでもある人を根こそぎ教師の職から排除せよ」
と言うのです。
しかしそれは、
「諭吉先生の言う〈迷惑をかけないだけ〉の人、すなわち『気概のない人』を集めて教師にして学校を運営せよ」
と言うのに等しいわけです。
そんな「若い異性に興味がない人」などは全体の1%にも満たないでしょうし、仮にたくさん集まっても世の中の役に立ちません。
すなわち、「地上道徳」を〈仮のもの〉として認めるのではなく、《真のもの》として盲目的に追求してしまっているのです。

では、実際に世の中に役に立った人ならば、その人は、地上的なものを超越して霊的視点に立っているかというと、必ずしもそうとは限らないようです。
充分世の中に役に立った人でも、〈仮〉と《真》を履き違えた人の例をあげます。
★ある「臨死体験」の動画に、もう一度「やり直し」を告げられた人の話があります。
その人は、仕事が順風満帆で、幾つも会社を立ち上げて人々を経済的に潤し、自身も毎日忙しく活動し充実した申し分のない人生を送ったということです。
死後それを〈誇り〉にして、さぞかし褒められて、受け入れられると思って霊界に赴きました。
ところが、高級霊から言われました。
「あなたは人生を楽しまなかっただろう」
「もう一度人生をやり直してこい」
その人は自分にとっても人々にとっても、悪いことはしていないし、むしろ社会に貢献したのに、どういうことでしょうか?
動画ではこれ以上の説明はありません。
私流に言わせてもらうと、これは、
「やってきた客観的な事実」
の問題ではなく、
「どういう動機でどういう意識で行動してきたか」
ということです。
どんなに立派なことでも、〈地上の道徳〉をよりどころにして生きて来たということが霊的に間違いなのです。
〈ベリアル〉や〈ユリゼン〉あるいは〈カエサル〉に帰依してしまっているということです。
〈誇り〉というというのが、問題のようです。
〈仮〉のものを《真》だと思い込んで人生を突き進んだということです。
この場合の「楽しむ」というのは、なにも豪遊するとか、ハチャメチャをやるとかではなくて、「真に楽しむ」ということです。
地上的な決まり事を意識しないで、いや、超越して、「素のまま」で行動するということです。
もちろん、社会の中で規制はありますから、ぶつかることはあります。
言ってみれば、迷惑をかけないことを良しとして徹底するのではなく、迷惑をかけない程度に好き勝手なことをして、世の中の役に立つことです。
でもここでいちばん重要なのは、繰り返しますが、
《地上的なことを超越する》
〈偽神〉に対しては〈仮〉のものとして認めても、けっして「帰依」しないということです。
本物の《神仏》に帰依することです。
人生の霊的勝利は、神仏と繋がることであって、傍から見て社会的に大きなことをしたかではないのです。
少数派でもいいのです。
わかる人だけでいいのです。
posted by コウイチロウ at 10:37| Comment(0) | 中庸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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